礼儀
とてもお久しぶりです。
盃です。
ここ数ヶ月で環境が急変したこともあり、全く登校することができていませんでした。
何はともあれ、今回のテーマは『礼儀』です。
まず、私にとって『礼儀』とは何か。『礼儀』の解釈についてお話したいと思いますので、少々お付き合いください。
私にとって『礼儀』とは、相手を不快にさせないため、相手を喜ばせるためのものです。
常識として多くの『礼儀』や『マナー』が存在しますが、その根本は上記の2つだと思います。
そんな中、私は先日、こんなことを言われました。
『物を貰う時に、遠慮せずに受け取るのは駄目。1度遠慮して、それでも念を押してきた時に受け取るのが礼儀』
私は、相手が物をくれると言った際には、有難くいただくタイプです。
相手が物をくれるという状況はいくつもあると思いますが、大体は何かの行為に対してのお礼だったり、相手からの親切だったりではないでしょうか。
その中で、私はせっかくくれるというのだから、変に遠慮するより、素直に受け取って感謝し、あげて良かったと思ってもらえたら良いなと思って、有難くいただきます。
何かの行為に対するお礼であった場合、もちろん私としてもお礼を期待してその行為を行ったわけではありません。自分がしたくてしたことなのです。ただお礼が貰えるというのは嬉しいことであるのもまた事実です。
なので、1度断るという行為に『お礼が欲しくてしたわけではない』という意味が含まれているというのは理解できます。
なので、私も明確に『1度遠慮する』ということはしないにしても、『お礼が欲しくてやったわけでははない』ということを伝えます。
更に、相手からの好意や親切であった場合には『申し訳ない』と言ったニュアンスも含まれていることでしょう。
そういった意味を持って存在する『礼儀』『マナー』は理解できます。
けれど、私に理解できないのは『形に囚われている』ということです。
私に冒頭の言葉を言ったのは母ですが、どうしても1回遠慮するという形式が大事なのだそうです。
それが『礼儀』なのだと。
それができないと恥をかくとのことです。
けれど、やはり私にとって『礼儀』とは、相手に不快な思いをさせない、相手に喜んでもらうためのものなので、その形にあまり重点を置いていません。
もちろん、明確な形があるというのは、意思疎通を簡略化させるので大切だとは思うのですが、その形に込められた意味を無視してまで貫くことではないように思えてなりません。
なので、私の性分や考えとして、くれると言うならあげて良かったと思ってもらえるように素直に受け取って感謝する。というような受け取り方をします。
それによって、喜んでくれる人も主観ですが多いように感じます。
けれど、それを図々しいと感じる人に対しては話が別です。
本質は相手を不快にさせない、相手に喜んでもらうことなのです。
遠慮せずに受け取ることで相手を不快にさせるならば、母の言葉通り、1度は遠慮します。
なので、答えは相手による。になるのですが
母としては、それが不満のようで、誰にでもそうしなければいけないと言い争いになりました。
私としても、『遠慮』というものの必要性は十分に理解できます。
なので、『遠慮』自体はします。
けれど、『遠慮』=『1度断る』ということには繋がらないのです。
『1度断る』意外にも『遠慮』する方法はいくつも存在するはずです。
つまり『遠慮』が必要だからといって『1度断る』必要はなく、違う方法でも『遠慮』を伝わりさえすれば良いのではと思うのでますが、中々理解が得られませんでした。
逆にせっかくくれるというものを形式上であるとは言え『断る』ということの方が失礼だと考えてしまいます。
ならば、あえて『1度断る』という方法を選ぶ必要性を感じられないです。
簡単なまとめとして、あなたにとって礼儀とはなんですか?という問いかけです。
そうするのが『礼儀』だから、それが『マナー』だからするのですか?
もちろん、『礼儀』『マナー』の形式というのには必ず意味があります。
けれど、その意味を見失って『形式』だけに囚われていては、『礼儀』『マナー』の本質を見失ってしまい、教えられていなければ、何も出来なくなってしまうかもしれません。
礼儀
とてもお久しぶりです。
盃です。
ここ数ヶ月で環境が急変したこともあり、全く登校することができていませんでした。
何はともあれ、今回のテーマは『礼儀』です。
まず、私にとって『礼儀』とは何か。『礼儀』の解釈についてお話したいと思いますので、少々お付き合いください。
私にとって『礼儀』とは、相手を不快にさせないため、相手を喜ばせるためのものです。
常識として多くの『礼儀』や『マナー』が存在しますが、その根本は上記の2つだと思います。
そんな中、私は先日、こんなことを言われました。
『物を貰う時に、遠慮せずに受け取るのは駄目。1度遠慮して、それでも念を押してきた時に受け取るのが礼儀』
私は、相手が物をくれると言った際には、有難くいただくタイプです。
相手が物をくれるという状況はいくつもあると思いますが、大体は何かの行為に対してのお礼だったり、相手からの親切だったりではないでしょうか。
その中で、私はせっかくくれるというのだから、変に遠慮するより、素直に受け取って感謝し、あげて良かったと思ってもらえたら良いなと思って、有難くいただきます。
何かの行為に対するお礼であった場合、もちろん私としてもお礼を期待してその行為を行ったわけではありません。自分がしたくてしたことなのです。ただお礼が貰えるというのは嬉しいことであるのもまた事実です。
なので、1度断るという行為に『お礼が欲しくてしたわけではない』という意味が含まれているというのは理解できます。
なので、私も明確に『1度遠慮する』ということはしないにしても、『お礼が欲しくてやったわけでははない』ということを伝えます。
更に、相手からの好意や親切であった場合には『申し訳ない』と言ったニュアンスも含まれていることでしょう。
そういった意味を持って存在する『礼儀』『マナー』は理解できます。
けれど、私に理解できないのは『形に囚われている』ということです。
私に冒頭の言葉を言ったのは母ですが、どうしても1回遠慮するという形式が大事なのだそうです。
それが『礼儀』なのだと。
それができないと恥をかくとのことです。
けれど、やはり私にとって『礼儀』とは、相手に不快な思いをさせない、相手に喜んでもらうためのものなので、その形にあまり重点を置いていません。
もちろん、明確な形があるというのは、意思疎通を簡略化させるので大切だとは思うのですが、その形に込められた意味を無視してまで貫くことではないように思えてなりません。
なので、私の性分や考えとして、くれると言うならあげて良かったと思ってもらえるように素直に受け取って感謝する。というような受け取り方をします。
それによって、喜んでくれる人も主観ですが多いように感じます。
けれど、それを図々しいと感じる人に対しては話が別です。
本質は相手を不快にさせない、相手に喜んでもらうことなのです。
遠慮せずに受け取ることで相手を不快にさせるならば、母の言葉通り、1度は遠慮します。
なので、答えは相手による。になるのですが
母としては、それが不満のようで、誰にでもそうしなければいけないと言い争いになりました。
私としても、『遠慮』というものの必要性は十分に理解できます。
なので、『遠慮』自体はします。
けれど、『遠慮』=『1度断る』ということには繋がらないのです。
『1度断る』
私の格言14
人は変わることができる
けれど簡単には変われない
覚悟が必要で、我慢が必要で、思考が必要
多くの人間が志半ばで折れてしまう
そして人は人を変えることもできる
けれど、それは自分を変える以上に難しい
私の格言13
しっかりと区別できてるかい?
『優しい』と『易しい』は似ているけれど
しっかりと区別しなければいけないよ
相手を許容し、相手の望むままに、甘くするのは『優しい』じゃなくて『易しい』だけ
本当の『優しさ』は、時として相手を傷つけることだってある
私の格言12
過ぎたるは及ばざるが如し
何事も過度であってはいけない
過度であることは、不足であることと同じ
そして不足であってもいけない
何事も中庸が最も好ましい
極端であれば、大きな長所の代償に大きな短所が付随する
けれど中庸であれば、程々の長所だけが残る
どちらにも利点がある
あとは人の生き方次第
私の格言11
何かを選ぶということは
それ以外を選ばないということ
何かをするということは
それ以外をしないということ
何かを得るということは
それ以外を失うということ
私の格言⑩-2
何に価値を見出して
何に価値を見出さないのか
それを人は価値観という
人は自分の価値観を認めてもらいたがる
それは相手も同じこと
相手の価値観を認めたからと言って
自分の価値観の否定にはならないよ
無理に価値観を押し付けたら
自分の価値を相手に見出してもらえなくなっちゃう
価値観はぶつけ合うものじゃない
研いで磨いて、尊重し合うものだ