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推敲

みなさんこんばんは、盃です。

 

今日は『推敲』という言葉に意味についてお話していきたいと思います。

 

『推敲』

 

皆さんも聞いたことがあると思います。 

そして文章を書く方にとっては非常に身近な言葉だと思います。 

そういった方の前では、改めて書くのは憚られますが、復習とでも思っていただければ幸いです。

 

 

『推敲』という言葉は『唐詩紀事(とうしきじ)』という本に出てきます。

 

唐詩紀事』は中国の唐の時代の詩とそれにまつわる話を纏めた計81巻、取り上げられた詩人の数は1150人にも及ぶという書です。

よくぞこの時代にこんなに沢山の人たちの詩を集めたものだな、と感心してしまいますね。

 

 

唐の時代、賈島(かとう)という男は、科挙(官吏登用試験)を受けるために、遠路はるばるやってきました。

 

試験会場に向かう道中、驢馬に乗りながら詩を作る中で『僧は推す月下の門』という句を思いつき、それを口遊みます。

 

すると、『推す』の他に『敲く(たたく)』という表現も思いつき、どちらが良いか迷いました。

 

どちらが良いか決めるために、手で門を押す仕草をしてみたり、敲くふりをしてみたりしても、中々どちらが良いか判断ができません。

 

そのことに彼は没頭してしまっていた所為で、向こうから役人達の列が来ていることに気づくことができませんでした。

 

その結果、その列に突っ込んでしまいました。

 

そして運の悪いことに、ぶつかってしまった役人は、長安の偉い人、韓愈だったのです。

 

なので、賈島は捕らえられ、韓愈の前に連れていかれてしまいました。

 

そこで賈島は列に突っ込んでしまった訳を話すと、漢詩でも有名であった韓愈は怒ることはせず、「敲くの方が、月下の音を響かせるので、風情がある」と助言し、その後しばらく賈島と韓愈は詩について論じたそうです。

 

この故事の中で登場する『僧は推す月下の門』についても書いておきます。

 

ちなみに完成した詩は『題李凝幽居』です。

 

題李凝幽居

李凝の幽居に題す

 

閑居少隣並

閑居 隣並(りんぺい)少(まれ)に

 

草径入荒園

草径(そうけい)荒園(こうえん)に入る

 

鳥宿池辺樹

鳥は宿る 池辺(ちへん)の樹

 

僧敲月下門

僧は敲く月下の門

 

過橋分野色

橋を過ぎて 野色(やしょく)を分かち

 

移石動雲根

石を移して 雲根(うんこん)を動かす

 

暫去還来此

暫く去りて 還(ま)た此に来たらん

 

幽期不負言 

幽期 言に負(そむ)かず

 

隣近所に家はなく、静かな住まい。

草の小道が荒れた園に続いている。

池辺の樹では鳥が眠っている。

僧は月下の門を叩く。

橋を過ぎた所には野趣が取り入れられ、

石は雲湧く山から移したものだ。

暫くしたら、また此処へ来る。

風雅の約束を決して違えたりはしない。

 

この詩は、僧が隠居している友人の家を訪ねたとき、友人が留守だったので、自分が来たことを知らせる書置きを想定したものだったようです。

 

隠居して、閑散とした場所に住んでいる友人の家へ辿り着くまでの情景を述べて、『静かで自然豊かな良い所に住んでいるね』と褒めています。

そして、門を叩いて自分が来たことを友人に知らせようとしますが、友人は留守でした。

なので、しばらくしたらまた訪問します。という書き置きをしてその場を離れた。

 

そういった内容だったようです。

 

ここからは私の解釈を交えます。

最初読んだとき、

僧敲月下門

過橋分野色

移石動雲根

の順番に違和感がありました。

橋や造園の石は門の外側にあるという印象があります。

造園は門の内側にある印象も拭えませんが、でなければ結局門の内側に入れなかった僧がそれらを見ることはできません。

たとえば、門が私の想像している敷地の区切るために存在しているものではなく、玄関前の扉のことを指しているのであれば、全ての筋が通ります。

けれども、そこについて詳しい言及はなされていません。

なので、武家屋敷にあるような敷地を区切る門のことを想定しています。

そんなこんなで、門を叩いた後に橋や造園の描写が来るのは違和感があって、門を叩く前に来た方が良いんじゃないかなと思いました。

 

もちろん、この順番の方が詩として美しいと言われてしまえば、私は納得せざるを得ません。

けれど、まだ答えがわからないので、勝手に解釈します。

 

私はこう思いました。

僧は友人が留守とは知らないわけですから、門を叩いてから留守を悟るまでに短くない時間待っていることになると思います。昼間だったら少し待っても反応がなかったら早々に留守を悟ると思いますが、時間は月が出ている夜ということなので、友人が寝ているかもしれないということを考慮すれば、そこそこ長い時間を門の前で待っていたと思います。

その待っている時間で、来る途中にあった橋や造園を眺めていたのではないかと私は想像しました。

 

そして本題である『推敲』ですが、私は『敲くの方が風情』があるという理由だけでなく、他の理由でも『敲く』の方が良いと感じました。

 

僧が訪れたのは夜です。

しかも閑散とした場所で、『推す』という動作は何か後ろめたい感情が見える気がします。

『門を推す』という行為は、相手に自分の来訪を知らせるという行為ではなく、門の鍵が開いているかどうかに重点を置いた行為のように思います。

夜にそうするのは『盗人』のような印象を私は抱いてしまうのです。

なので、『推す』ではなく、敢えて音を立てて自分の存在を示す『敲く』のほうが良いと私は考えました。

 

 

このように既存の何かを、『そうなのか』と鵜呑みにするのではなく、『じゃあこういうことかな』などと考えてみると楽しいと思います。

 

もちろん、的外れな解釈をすることも多々あるでしょう。けれど思うだけは自由です。

 

みなさんも気が向いたときにでもぜひ。