怒りというもの
一応、気力が続く限りは毎日更新することを細やかなノルマにしていますが、やはり未だに何について書くか決まりません。
なので、今回は常日頃から思っていたことについて言葉にしていきたいと思います。
まず、文章を書くことに慣れていないこと
そして、自分の考えを言葉にすることにも慣れていないことを留意の上で読んでいただけると幸いです。
今回のテーマは『怒り』です。
人は数多くの複雑な感情を持っています。
代表的な感情として『喜怒哀楽』を耳にします。
それぞれの色は勝手なイメージですが
喜び、怒り、哀しみ、楽しむ。これらがなければ人生はきっと起伏の少ないつまらないものになっていたものでしょう。
喜びや楽しいなど前向きな感情はもちろん、怒りや哀しいなどの後向きな感情でさえも人生を彩る大切なスパイスです。
とは言え、時に人間を大いに振り回します。また人間は社会的な生き物ですから、人ひとりの感情が相手に大きな影響を与えることも数知れず存在します。
喜びや楽しさに振り回されるのは願ってもないことですよね。また人の喜びや楽しさが及ぼす影響もまた多くの場合は悪い気はしないと思います。
けれども、怒りや哀しみに振り回されるのはあまり望んではいないのではないでしょうか。ましてや人の怒りや哀しみに触れると、自分もその感情に引きずられてしまいます。
適度の怒りや哀しみは人間の成長には必要不可欠なものですが、度を過ぎてしまうとそれは途端に人生を台無しにするものに変質してしまいます。
その中で、『怒り』や『苛立ち』ついて言及していきたいと思います。
『怒り』というのは。感情の中で特に過激な性質を帯びていると感じます。7つの大罪の一つにも数えられるくらいなので的外れな見解ということはないと思います。
7つの大罪にも数えられるとなると、『怒り』に支配されると碌なことがなさそうです。
ちなみに、私自身、現時点では怒ることはそうそうありません。まず怒る理由が見つからないし、いざ怒ろうと思っても長らく怒っていないので怒り方もわからず、感情に任せると子供の癇癪のような怒り方になりそうで恥ずかしいです。
では、何故、人は怒るのでしょうか。私も少し考えてみました。
『怒り』とは自分の中にある『理想』と状況や結果などの『現実』とのギャップに対して起こる
と思いました。
『理想』と『現実』とのギャップによって生じる『不満』の表現方法の一つとして『怒り』あり、他には『哀しみ』や『失望』なども『不満』の表現方法......
かなと思っています。
そして、『怒り』は人を攻撃的にし、時には理性や知性すら掻き消してしまいます。
では、
『哀しみ』などと違い、『怒り』はなぜ攻撃的であるのか。
それは『怒り』は『理想の強要』だからだと思います。
『理想』は『期待』や『常識』に言い換えることができます。
自分が持つ『理想』『期待』『常識』を相手や結果などの『現実』とのギャップに押し付けようとした結果、『怒り』となり、攻撃的になると私自身は考えています。
『理想』『期待』『常識』を『現実』とのギャップに押し付けてしまうのは、自分の持つ『理想』『期待』『常識』に『悪い自信』を持ち過ぎているからだと思います。
これはこうあるべき、
こうでないなんておかしい。
これはこうなってほしい、
こうならないなんておかしい。
これはこうなるのが当たり前、
そうならないなんておかしい。
大体の怒りはこんな感じだと思います。
そのほとんどが自分の正当化、その他の否定です。
確かに、それはそうあるべきなのかもしれないし、あれはああなったら嬉しいかもしれない、そうなった方が一般常識に該当しているかもしれない。
けれど、
その全てはあくまで自分一人の『理想』で、自分一人が勝手に願っている『期待』で、自分一人にとっての『常識』なんです。
所詮は自分の都合です。
勿論、状況や結果は自分の都合に合わせてくれるはずもありません。
そして人間相手であっても同じことです。
自分にはこうあるべきという『理想』があるのと同じように、
相手にもこうあるべきという『理想』があります。
自分にはこうなって欲しいという『期待』があるのと同じように、
相手にもこうなって欲しいという『期待』があります。
自分にはこうなるのが当たり前という『常識』があるように、
相手にもこうなるのが当たり前という『常識』があります。
自分が自分の都合で物事を考え、自分の都合のいいように物事を運ぼうとするように、
相手も相手の都合で物事を考え、相手の都合のいいように物事を運ぼうとしています。
自分が都合の良いようにするのは良くて、相手の都合の良いようにするのは駄目なんて都合の良いことは許されません。
だから人それぞれ、自分の都合の良いようになるように行動します。
そうなれば、当然自分の都合と相手の都合が対立することもあります。
人が多くなれば、その対立がもっと複雑に絡み合ったりすることでしょう
けれど、『対立』と『衝突』は同じではありません。
だって『対立』お互いの立場が一緒ではないという状況で、『衝突』はもうぶつかってしまっていますから。
『対立』したからと言って『衝突』する必要はありません。
『衝突』してしまったら、『怒り』という高圧的な道具を互いに振りかざし、お互いの都合を押し付け合って、自分の都合を通すために相手の都合を蔑ろにするという物騒なことになってしまいます。
というか、そういった状況が日常の至る所で頻発しています。
もし『対立』したとしても、『怒り』という凶器ではなく、『言葉』という道具を適切に使えたならば、どちらか一方の都合を通して、もう一方の都合を無視するのではなく、お互いの都合をある程度満たした折衷案を提示することができる
のではないかと私は思っています。
ということもあり、私が『自分の都合』と『現実』とのギャップに『不満』を感じることがあれば、まず『言葉』を使って『相手の都合』や『結果・状況に至った理由』などを理解することから始めます。
時には、自分と相手が悉くすれ違っていることもありますし、根本的に相容れないこともあります。
けれど、本当に『自分の都合』を通したいのならば、『怒り』によって周りを弾圧するよりも、『言葉』によって相互理解し、『お互いの都合』を助け合う方が現実的だと私は思っています。
なので、私にとって『怒り』とは今のところ使い所のないものです。
大体の『怒り』には『怒り』以上に効果的な方法があるのではないでしょうか。
もし読んでくださる方がいらっしゃれば、思う所は沢山あるとは思いますが、あくまでも私一個人の見解です。
実際に私の周りには怒りを原動力に行動して、成功していたり、活動的であったりする人も存在しています。なので適度の怒り、自分に対する怒り、また矛盾かと思われるかもしれませんが、次に繋がるような前向きな怒りがあることも承知しています。
あくまで度が過ぎると、無意識に使い続けるなどを問題視しています。
ご理解の程宜しくお願いします。