自分の人生、他人の人生

私の人生は私のものです。貴方の人生は貴方のものです

アルジャーノンに花束を

みなさんこんばんは、盃です。

アルジャーノンに花束を、二度目の読了となります。

以前読んだ時には、漠然とした感想しか持てなかったため、二周目読みたいなと思っていたのでそれが、叶った形になります。

 

ここからは、敬語を取りやめ、『である』などの言い回しをするようになりますのでご了承ください。

と言いますのも、そちらの方が言葉としてまとめやすかったためです。

敬語ではなくなっても高圧的になったというわけではないので、ご留意の程よろしくお願いいたします。

更に長くなりますが、今回の感想はネタバレが基本です。ネタバレが嫌な方は読むことをおすすめしません。

 

白痴ながら賢くなりたいと切に願うチャーリィに自分の有り様を考えさせられた。

チャーリィには賢くなりたい、学びたいという強い意志がありながら、それを実現できる能力がなかった。

けれども自分は賢くなることができる、又は十分に学ぶことのできる環境が揃っていながらそれを行う意志がなかった。


このことより、
自分が持っているけれど不要と決め付けたモノは誰かが必要だけど手に入れられないモノ。
ということを学んだ。

これを踏まえて、それでも不要と決めつけるのも一つの選択だが、

私は今一度自分が持っているモノの価値を見つめ直したいと思った。


それから手術を受ける前のチャーリィへの周囲の目はとても印象的だった。


多くの人間が自分より劣っている存在を嘲笑したり、同情したり、諦めている。
私自身はそのような対応をされることは嫌だけれど、チャーリィの心情を考慮するならば、どれだけ嘲笑・同情されていようと、それで心が通じているのならば、それは悪いことばかりではないというように思えた。


チャーリィが手術を受け、知能が上がって行くまでの間、私はチャーリィに色々なことを感じた。
知能の向上に応じて、強い自我が生じ、怒りが生まれたことに対して、人間の成長段階を彷彿とさせた。


そして同じく、知能の向上に応じて、周囲の目の意味を知った時に、人としての喜怒哀楽、羞恥心や敵対心の芽生えを感じて、知能と相まって感情も複雑化していたし、そのような複雑な感情が人間関係の在り方さえも複雑化していることがわかった。


それは複雑な感情を持っている者同士で自分の意見や感情、理想なんかを相手に押し付けようとしているからだ。

チャーリィの知能が向上していき、周囲の目が変わることに爽快感を感じるとともに哀愁も感じた。人間の汚ささえも感じた。

 

爽快感はチャーリィをバカにしていた人たちの鼻を明かせたことに対するもので、

 

哀愁は知能の向上がチャーリィを孤独にしてしまったことに対するもの。

 

そして人間の汚さは今まで自分がチャーリィに対して同じようなことをしていたのに、いざ自分がされる側になるとそれを許容できないように怒り、怖がったことに対してのものだ。


知能が向上してからは、同じレベルの人間でないと、心を通わせることができず、会話も正しく成立しないということを学んだ。その中にはきっとレベルが高い者の無意識に見下している姿勢と、レベルが低い者の劣等感が存在すると思う。


知能だけが向上し、そこに人格を伴わなかった場合の末路は私ですらこの本を読む前から知っている。

もちろん、チャーリィの知能の向上は急速なものであり、その短い間に情操教育などの人格を育てることができないのはわかる。


そして知能が向上しつつも、人格の成長のなかったチャーリィは私の予想通りの人間となった。自分の知能の高さを普通だと思い、他人を見下すようになった。
自分と他人の違いを理解しようとしなかった。自分以外を見ようとしなかった。
そうしてチャーリィは余計に孤独になっていった。


けれど、徐々にチャーリィは感情というものを理解し始めるが、その時には既に遅かった。知能の低下が始まったのだ。

人格を育てる考え方が徐々に備わって行くも、それ以上に知能低下の恐怖やそれに伴った症状が酷く、無気力になり、周囲に当たり散らした。頭では分かっているが、理性の低下のせいでそれを抑制できなかった。

知能が高かった頃に築いた数少ない人間関係は壊れてしまい、せっかくできた拠り所をまたもや失ってしまう姿に心を痛めた。

そうして全てを失い、チャーリィはまた人々の同情を集める存在になってしまった。
けれども、それをチャーリィは不幸とは思っていない。

 

チャーリィは知能の向上によって沢山のモノを手に入れて、沢山の物を失った。
そして知能の低下によって、沢山のモノを失って、知能の向上によって失った沢山のモノを取り戻した。

そして、知能の向上によって手に入れ、知能の低下によって失わなかったものもあるように私は思える。

それは、しっかりと他人のことを思いやるということ、本当の愛を知ったということだ。


それは当初のチャーリィにはなかったものだ。自分のことで精一杯だったチャーリィには見えないものだった。

 

以上が『アルジャーノンに花束を』を読んだ私の感想でした。

 

もちろん、色んな感想を持った人が居るでしょう。私の感想が気に入らない人もいるかと思います。アリス・キニアン先生が好きな人もいるでしょう。その方には本当に申し訳ないと思いますが、私個人の考えだと割り切っていただければ幸いです。

私の感想が、多数派に入るか少数派に入るか私自身では見当もつきませんが、読んでいただければ、幸いです。