教養人と知識人
みなさんこんばんは、盃です。
今日は『教養人』と『知識人』について投稿していきたいと思っています。
みなさんは『教養人』と『知識人』という言葉に聞き覚えはありますか?
私はこの言葉に出会うまではあまり馴染みのない言葉でした。強いて言うなれば『知識人』は聞いたことがある気がするな、、、何となく意味はわかりそう。くらいの印象でした。
更に言えば、『知識』と『教養』ってそんな違いあったっけ?くらい思っていました。
ではこの言葉たちにどこで出会ったのか。
読書が趣味の私のことですから、当然読書中です。
出会いはズバリ『論語』を解説していた本を読んでいた時です。
じゃあそもそも『論語』とはどんなものなのか。その話から始めたいと思います。
まず『論語』は古代中国の書物です。かの有名な孔子の言葉を弟子たちが書き取ったものだそうです。
早速話がズレて申し訳ないのですが、実は孔子という名前は本名ではありません。本名は『孔丘』です。『孔』が苗字で『丘』が名前です。では何故『孔子』と呼ばれているのか。
それは『子』の意味が関係しています。古来中国において『子』は敬称として使われていました。なので現代に言い直すと『孔先生』ということになります。
『論語』は弟子たちが書き記したものなので、当然師匠を呼び捨てにするはずがありませんよね。なので『孔先生』と書いていたら、それを知らない私たちが『孔子』という名前なんだなって思っただけですね。
まあややこしいのでこれからも『孔子』と書きますが、ぜひ覚えてみてください。
ちょっとした豆知識でした。
本題に戻ります。
『論語』には孔子の言葉が書かれています。その多くは弟子との問答です。
弟子が『これはどういうものか』
孔子が『それはこういうことだ』
みたいなやりとりが多く見受けられます。
その中に『教養人』と『知識人』の話が出てきます。
直接『教養人』『知識人』という言葉が出てくるわけではありません。
実際には『教養人』=『君子儒』、『知識人』=『小人儒』という言葉として出てきます。
『君子儒』『小人儒』にまで言及してしまうとかなり長くなってしまうので、ここでは割愛して『教養人』『知識人』で話を進めていきたと思います。
まず『知識人』の説明から。
『知識人』とは言葉の通り、『知識』のある人です。けれど『知識』の有無に重きを置いているので、そこに人格は含まれていません。『知識』さえあれば『知識人』となります。
そして『教養人』は『知識人』の上位に置かれています。『知識』があるのに加え、判断力、構成力、人徳、コミュニケーション能力など人間としての人格だったり、人間性がなければなりません。
『孔子』は人を導く立場にあるものは『教養人』でなければいけないと言っています。
なぜなら『知識人』は『教えるべき知識』を有していても『教えるための能力』を有してはいないからです。
教師などの人を導く立場にある人に求められるのは、『知識』だけではなく、『人間性』も大切だったりします。だから『教養人』である必要があるんですね。
現代では教員免許という形で人に教える権利が得られるわけですが、その中でもやはり知識だけでなく、教師として生徒をどのように導いていくか、といった講義があるようです。その話を聞いた時、孔子の言葉が思い出され、大切なことはしっかりと現代でも生かされているのだな。と感じました。
私自身は教員免許は持っていませんが、社会に出て数年経てば後輩が出来、私も教える立場になります。
その時までに『知識人』ではなく『教養人』になって、後輩にしっかりと物事を教えることができるようになりたいと思っています。
今日の所は以上です。
ありがとうございました。