ネガティブな人へ
こんばんは、盃です。
今回はネガティブ思考について書いていきたいと思います。
とは言いましても、私自身も元ネガティブです。
『元』ネガティブということは、今はネガティブではなくポジティブなの?
と思われるかもしれませんが、俄然ネガティブです。
未だに、考えると悲観的な考えに陥りやすいですし、シャワーを浴びていると過去の嫌な記憶がフラッシュバックしてくることもざらです。
みんなが気にしないことを気にしてしまい、「考えすぎだよ」とか「心配し過ぎ」など、よく『ネガティブだね』と言われていました。
けれど、ある出来事をきっかけに少しずつ変わり始めることができました。
なので、これは『ネガティブ』を重荷に感じている人、『ネガティブ』を脱却しようとしている人。そしてこれからの人生において何度も失敗し後悔し、躓くであろう未来の自分に送る言葉たちです。
他にも多くの方が『ネガティブ』に対して言及しています。
けれどもその多くが『ネガティブを克服する』というような趣旨だと思います。
確かに私が以下に綴っていく内容もそれに準ずるものありますが、私が言いたい主軸は違います。
私が言いたいのは
『ネガティブな自分を受け入れる』
ということです。
これは決して『私はネガティブだからしょうがない』という何かを諦める時に使う言い訳ではありません。
そこに留意していただき、続きを読んでいただければ幸いです。
まず、以前まで私はネガティブでした。どれくらいネガティブかと言われると、尺度がわからないので言及しにくいですが、
・何かを考える度に悲観的になる
・過去の失敗を永遠に引きずる
・未来が不安だらけで怖い
・人に嫌われる行動を無意識にしてそうで人と関わるのが怖い
などなど、まだまだありますがこんな感じです。
人によっては重度のネガティブには程遠いと思うかもしれませんが、私なりに漠然と何とかしたいなと思っていましたが、何分ネガティブなので、新しいこと一つ始めるにしても不安が付き纏い、手を拱いていました。
そんなネガティブな自分を忌まわしく思い、それでも何もしないまま21歳を迎えました。
21歳。大学に進学していれば3年生。いよいよ就活を始める時期です。
私の中では、社会進出があと2年しかないと不安に駆られたことを覚えています。
学生の私には社会は何か得体の知れないもののように思えたのです。
これまでしてきた勉強は社会に通用するのか、人によっては全く意味がないと言う人もいるときた。今まで勉強してきたことが通用しないなら、全く新しい環境に適応しなければいけません。『適応力』が必要となると、それは私の持っていないものでした。
だって、『適応力』という代物は、新しい環境に飛び込んで、自分の力で悪戦苦闘して乗り越えねば手に入らないのです。何をするにも失敗を恐れ、リスクを避けて既存の環境にしがみついていた私が手に入れていなくて当たり前のものでした。
私にできる新しいことと言えば、学校で『やれ』と言われたことだけでした。
学校で『やれ』と言われたら、やらねばならない。学校と家族以外のコミュニティに属したことのない私の当たり前でした。それがゼロではない『適応力』の正体です。
そして就活が始まる際に大学の就活支援の方がガイダンスで『自己分析』をした方がいいと言いました。
ただでさえ、社会・就職に不安を感じている私としては死に物狂いで『自己分析』をしました。
自慢と言っては何ですが、根がネガティブなもので、外の世界と関りを持ってこなかった代わりに自分の世界で過ごした時間はとても長く、自分の駄目な所、自分の好きなもの、自分の嫌いなものはすぐに挙げることができました。
けれども、挙げられないのが、自分の長所、自分の特技、やりたいこと。それをやりたい理由です。
たとえ挙げられないと言っても、挙げなくてはいけません。嘘をでっちあげられる程器用でもないですし、ただでさえ不安なのに、嘘を吐くということの危険性は知っていたつもりだったので更に死に物狂いで考えました。
そうして少しずつ自分の駄目な所はもとより良い部分も理解していきました。
なので、
『ネガティブ思考』の方に是非ともおすすめしたいのは
『自己分析』です。
しっかりと自分を知ってほしいのです。
そして『自己分析』を通して『自分を受け入れる』ということをしてほしいと思っています。
ここで誤解して欲しくないのは、初めの方でも言った通り『ネガティブ思考』の自分を受け入れて『ネガティブだから仕方ない』と開き直ってしまうことです。
もちろん、本人がそう思うことで心が楽になるなら良いと思いますが、私の本意ではないことは確かです。
では私の言う『自分のネガティブ思考を受け入れる』とはどういうことなのか。
私の言う『ネガティブを受け入れる』とは、そういう『個性』
だと認めることです。
『ネガティブ思考』は『個性』です。
決して『欠点』ではありません。
よく『ネガティブな言葉』を『ポジティブな言葉』に変換するというような思考を切り替える方法を耳にします。
なのでそれに肖って『ネガティブ』という言葉自体を他の言葉に変換してみます。
『ネガティブな人』ということは
慎重な人です。
不鮮明な未来に対してしっかりと危機管理をできる人のことです。
あらゆることの『最悪』を想定することができる人です。
『失敗』した時のことを考えられる人です。
『ポジティブな人』より劣っているわけではありません。
『活躍な場』が違うだけなのです。
慎重な人がいなければ、会議で出される企画は穴だらけのものなるでしょう。
危機管理能力が高い人がいなければ、危ないことを止めてくれる人がいなくなります。
『最悪』を想定できる人がいなければ、もし『失敗』した時、面を喰らうだけで対応できる人がいなくなってしまいます。
そして『失敗』した時のことを考えられなければ、『失敗』しないために何が必要かわからないじゃあないですか。
『ネガティブ』な人はこれらの能力が高いだけだと私は思います。
なので『ポジティブな人』と同じくらい大事な人材なのです。
だって、『ポジティブな人』に足りない部分を補えるのですから。
当然、逆も同じです。
『ネガティブな人』に持っていない能力を『ポジティブな人』は持っています。
そして多くの人は『ポジティブな人』が持つ能力を善として、その対照に存在する『ネガティブな人』が持つ能力を悪としているだけで、社会にはどちらも必要、両方存在しているからこそ、社会は成り立っていると言えます。
だから、せっかく持っている『ネガティブ』を捨てるなんて勿体ない。
私はそう言いたいのです。
私が言う『自分のネガティブを受け入れる』という意味が分かっていただけたでしょうか。
『ネガティブ』はちゃんと価値があるものなのです。
ですが、『ネガティブ』だからこそ、不都合が生じることが多いのも事実です。
なので、上記の内容だけでは信憑性がないと思います。
では、ネガティブが故に生じる不都合をどう解決すれば良いのか。それを以下に綴りたいと思います。
まず、『ネガティブ』であろうが『ポジティブ』であろうが、不都合は生じます。
けれど、『ポジティブ』に不都合があるようには見えません。
その理由は『ネガティブな人』が不都合と生じることを『ポジティブな人』は不都合と気づかないからです。『ポジティブな人』は持ち前の前向きな考えで自分の都合よく捉えるので負担に感じない。また、周りの人に不満を零さなかったり、上手いストレスの解消法を知っていたりします。だからこそ楽な部分とそれに応じた弊害が存在しますが、今は置いておきます。
一方で、『ネガティブな人』が問題を解決しようとしても上手くいかないことをよく目にします。
私が思うに理由は簡単です。
それは『解決方法の相性が悪い』ということです。
『ネガティブな人』が往々にして感じる不都合とは、『不安』によるものが多いと思います。
ちゃんとできなかったらどうしよう。失敗したらどうしよう。
あの時、こうしておけばよかった。なんでこんなことしたんだろう。
などなど、未来に対する『不安』と過去に対する『後悔』が現在の行動に支障を来します。
これに対して人は『考えすぎ、考えても意味がないから考えない方がいい』『運動したら嫌な事を忘れられるよ』などの改善案を提示します。
けれど、その多くは『ポジティブな人』が取る改善案だと思います。
それができる人に向けた改善案なのです。
対して私たち『ネガティブな人』は『考えない』なんてことはできません。運動をしていようが小さい隙を着いて不安が湧いてきます。その『不安』について以外手に付かなくなると思います。
『ネガティブな人特有の不安』を『ポジティブな人の解決策』でどうにかなるわけがありません。
もちろん不可能ではありませんが、相性が悪いですし、向いていません。
ではどのようにして『ネガティブな人特有の不安』を解消するのか。
それは『考え抜く』という方法です。
どうせ不安で他の事が手に付かないのですし、『不安』について満足の行くまで考え抜けばいいのです。
世の中には『考えすぎ』という言葉がありますが、私は『考えすぎる』ということが本当にあるのかわからないのです。
だって、『ネガティブな人』は『不安』を解消したいがために最善を尽くそうとして考えてしまうのです。
『最善策』が考えている最中にあったなら、気づかないはずがない。私はそう思います。
考えている最中にあるのは『最善策』ではなく『妥協案』だと思ってしまいます。
不確定要素や悪い結果が起こる可能性に目を瞑った案が『妥協案』です。
『ネガティブな人』の考えを『考えすぎ』としたなら、そうではない『ポジティブな人』は『最善策』を選べていて、私からすれば失敗するはずがないように思います。
けれど、現実はそうではないことから、やはり『最善策』ではなく『妥協案』であるのは強ち間違いでもないように思えます。
なので、『ネガティブな人』がよく言われる『考えすぎ』は実は『考えすぎ』ではないと仮定するならば、『考えのもっと先』があると思います。
逆に、『最善策』を求めているとすれば『考えが足りない』とすら思うこともあります。
それが私の言う『考え抜く』です。
現時点でできる思考能力の全てを駆使して『考え抜く』、それが無意識に『考えてしまう』私たちに課せられた運命だと思います。
現時点でできる思考能力の全てを駆使して考え抜いて得た解決策は、
『ありとあらゆる選択肢の中での最善策』
ではないかもしれません。
けれど、必ず
『現時点で自分が考え、選べる選択肢の中での最善策』です。
自己分析で自分の等身大を知っておくことによって、自分のできることとできないことを理解することに繋がります。
その上で『現時点で自分が考え、選べる選択肢の中での最善策』までたどり着くことができれば、それ以上に考えることはできません。
そこまで到達してしまえば、何度その不安について考えたとしても、結局同じ結論にたどり着きます。
そうなってしまえば、もう自分にできることはその結論を実行することだけです。
『ありとあらゆる選択肢の中での最善策』でない以上、勿論失敗することもあります。
けれど
『現時点で自分が考え、選べる選択肢の中での最善策』を実行したのであれば
たとえ失敗に終わっても、後悔することはありません。
なぜなら、それは今まで生きてきた人生の集大成を以てしても失敗を回避できなかったということだからです。
例えば、
見えるはずのモノが自分の不注意によって見逃した結果の失敗だったら
もっと注意して見ていれば良かったという後悔が湧くでしょう。
けれど
自分に見えないとわかっているモノが作用した結果の失敗だったら、その時点の自分ではどうすることもできないとは思いませんか?
できることと言ったら、次同じようなことがあった場合、同じ失敗をしないように成長する。ということくらいでしょうか。
これが『考え抜く』ということの真意です。
このように考えるようになってから、私は変わり始めました。
『自己分析』をして、『ネガティブ』を受け入れ
元々持っていた『ネガティブ』の『無意識に考えてしまう』という性質を利用して、『ネガティブ』自体について考え、『ネガティブ』の『ポジティブ』な部分を見つけました。
それからは『ネガティブ』を軸とした『ポジティブ』な考えができるようになりました。
そうやって芽生えた『ポジティブ』な考えは、普通の『ポジティブ』とは一味違っていて、普通の『ポジティブ』にはない『確固たる根拠』というものがしっかりと備わっています。
こういったことから、『ネガティブ』と『ポジティブ』は紙一重だと思いました。
きっと『ネガティブな人』の中には、別に『ポジティブ』になりたいわけじゃない人もいると思います。
今のままの自分でいいというような自己肯定感の高い人は例外ですが
『ネガティブな自分は好ましくないけれど、ポジティブになりたいわけじゃない』という方は、是非とも『自己分析』だけして、『自己理解』を深めてみてはいかがでしょう。
以上で、今回の投稿を終えさせていただきます。
長文となりましたが、読んでくださりまことにありがとうございます。