『子曰く』①~年齢と人徳~
どうもこんにちは盃です。
最近中々話題を見つけることができずに頭を悩ませることが多くなりました。
書きたいことはいっぱいあるのですが、投稿できる程しっかりと言葉や文章にすることできていなかったり、時間をかけて文章化するための時間を取ることができなかったりすることが続いているのです。
なので、シリーズを作ってそれについての説明と、私なりの考えを書こうと思いつきました。
そこで私の好きな論語についてシリーズ化したいと思いました。
とは言っても、私自身論語の原文を読んで、自分で理解したわけではありません。
日本語に翻訳され、なおかつ解説のついているものを読んでおります。
なので出典が『論語』の他にも存在します。
角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 論語
という加地伸行さんの書かれた本を参考にしています。
書かれている順はあまり気にせず、心に残ったものから逐次取り上げて紹介していきたいと思います。
まず記念すべき第一回目は『年齢と人徳』についてです。
この副題については論語出典や加地さんの本に書かれている言葉を参考にしているわけでなく、私が付けていますので悪しからず。
『年齢と人徳』
子曰、吾十有五而志于学。
子曰く、吾 十有五にして学を志す。
三十而立。
三十にして立つ。
四十而不惑。
四十にして惑わず。
五十而知天命。
五十にして天命を知る。
六十而耳順。
六十にして耳順(したが)う。
七十而従心所欲、不踰矩。
七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰えず。
孔丘老師が言うには、私は十五歳の時、学事に心が向かうようになった。
三十歳に至って独りで立つことができた。
やがて四十歳になると、自信が揺るがず、もう惑うことがなくなった。
五十歳を迎えた時、天が私に与えた使命を自覚し、奮闘することとなった。
六十歳ともなると、他人の言葉を聞くと、その細かい気持ちまで分かるようになった。
そして、七十歳のこの歳、自分の心の求めるままに行動しても、規定・規範から外れるということがなくなった。
という言葉があります。
この言葉から、日本では十五歳を『志学』、三十歳を『而立』、四十歳を『不惑』、五十歳を『知命』、六十歳を『耳順』と呼びます。
この年齢の頃には、こうなっていることが理想。という意味なのだと思います。
それをできるようになることを私は人徳を育むということなのではないか。と思っています。
なので、『志学』は物事を知ろうとする意欲や姿勢を身に付けるということを指し、
『而立』は自分のことをしっかりと自分でできる能力や精神を育み、
『不惑』は『而立』を更に修練して何事にも迷ったり、取り乱したりしない不動の精神に昇華させ、
『知命』は、それまで培ってきたものを使って自分に何ができるかを知って、それを成し遂げることに時間を割き、
『耳順』は、他人の言葉に感情を含めず、相手の言葉の真意をくみ取ることができるということなのではないかな。
と思いました。
『志学』
何かを学ぼうとする意識や姿勢を身に付けることは、今後の人生にとって途轍もなく大切なことです。
ここでの『学』はきっと『勉学』だけのことではありません。『勉学』はもちろんのこと『自分の知らないこと』全般だと私は解釈しています。
なので新しい環境に身を置いたとき、その環境に順応しようとする姿勢や、社会に出て仕事を覚えようとするときに必要な能力だと思います。
私がこういった姿勢や意欲を意識し始めたのは高校2年生のときです。年齢でいうと十六歳か十七歳の頃ですね。孔丘先生より1年か2年くらい遅い目覚めだと思いますが、私にしては上々です。
それまでは、義務教育ということもあり、勉強はさせられるものでした。確固たる自分の意思で行っているものではなかったので、できても長期的な記憶に残ることはなく、ましてやそれを応用することはできていませんでした。
けれど、『志学』に目覚めたことによって、義務教育の内容に自分なりの価値を見出したり、自分の学びたいことを鮮明に意識することができたり、知らないことに対する真摯な姿勢を得ることができ、学ぶことの喜びを知ることができました。
『而立』
この段階は『志学』によって学んできたものを自分のものにして、自分独自の価値観や考え、倫理観などを育んで、色々な物事を自分で意思決定し、判断することができるようになることだと思っています。
学ぶという意思や姿勢は生涯大切なものですが、学ぶことが仕事というわけにはいきません。自分の判断で決定し、自分の意思の下で行動しなければなりません。そしてそういった行動の結果には、責任を持たなければならなくなるのです。
現代社会で言えば、就職がこの段階を強制されるタイミングですね。
求められていますが、実際問題、この段階に到達できている新社会人や若手はどれだけいるかはわかりません。
孔丘先生の三十歳よりは十年程早い分、ということでしょうか。
私ももう少しで社会人ということで、『而立』に至る必要性はあります。
『精神面』では『而立』の域に到達している気がしますが、何分私は自己肯定感の高い人間なので、過大評価かもしれません。客観的に見られてもしっかり『而立』に至っていると思ってもらえるようにこれからも研鑽していこうと思います。
ただ『能力面』において『而立』はまだまだ先だと自覚しています。
自分の意思で決定し、判断して行動することはできますが、そこには不安がありますし、知らないこと、できないことが沢山あります。
なので、『能力面』は社会に出てから、何を知らないのか、何ができないのかをしっかりと見直して、孔丘先生が『而立』に至った三十歳までに同じように『精神面』『能力面』ともに『而立』に至れるように日々努力したいと思っています。
『不惑』
この段階もしっかりと『而立』を踏まえていなければ到達することはできないと思います。
『志学』を以て学び、『而立』を以て自分のものとして、そしてそこに多くの経験を積むことによって、何事にも惑わず、動じない『不惑』に至れると思っています。
なので、『而立』すら良くて『半分』でしかない私などはまだまだ遠いですね。
けれど不思議なことに、私は迷うこと、動じることはあまりありません。
判断をする際は自分の確固たる意志を以て決定しますし、何かあってもそれを受け入れたり対処したりするので、感情が波打つこともあまりありません。
このことから、私に足りないのはやはり『能力』と『実際の経験値』なのではないかと思っています。
ただ、あくまで自分の既知の世界でのことなので、新しい環境では自分では及びも付かないことも十分起こり得るので、迷ったり動じたりすることがあるかもしれません。
そうなった時は、一度初心に戻ったり、考えを改めたりしながら、状況の打破に努めたいと思います。
希望的観測として、精神年齢が実年齢以上であり、精神だけでも『不惑』に至っていてくれれば嬉しいな、と願うばかりです。
『知命』、『耳順』に関してはまだまだ遠い話ですし、違う機会に展望としてお話したいと思いますので、今回はこれくらいにしたいと思います。
この孔子の言葉は自分の年齢と精神年齢を鑑みるのにいい言葉だと思います。
自分はこの歳でどれくらいのことができているかな。など考えてみると、自己分析に繋がって今後の目標なども立てやすいのではないでしょうか。
まだ二十歳を越えて2年しか経っていない若輩者ですが、どうぞ耳を傾けていただければ幸いです。