孫子~疑問
どうもこんばんは、盃です。
本日二つ目の投稿です。
それはタイトルの通り『孫子』を読んでいて浮かんだ疑問点についてです。
そんなに長くするつもりはないので、早速書かせていただきます。
疑問に思ったのは、言葉の解釈についてです。
兵法は、一に曰く度、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝。
地は度を生じ、度は量を生じ、量は数を生じ、数は称を生じ、称は勝を生ず。
故に勝兵は鎰(いつ)を以て銖(しゅ)を称(はか)るが若く、敗兵は銖を以て鎰を称るが若し。
勝者の戦、積水を千仞(せんじん)の谿(たに)より決するが若き者は、形なり。
地形を考え、その地形の長短や広狭を知ることを『度』と言い、これには天候なども含まれる。
この地にどれほどの兵士を置くことができ、必要な物の数をはかることを『量』と言う。
これはごく少数のものをはかってその分量を計算する要領である。
そして、実際に配置する人数を決めることを『数』と言う。
これは、数や大きさなど細やかに決める必要がある。
『称』は『度』『量』『数』のつり合いを取ることを指す。
これらの四つをはかることが出来れば、自ずと勝ちにつながる。
という文です。
私はここの『数』について違う解釈を持ってしまいました。
原文の書き下し文は江戸時代の儒教者である山鹿素行の『孫子諺義』という書物の言葉を簡単にしたものです。
この中では、『量』を土地に配置することが可能な人数や物量、『数』を実際に配置する人数と物量とされていました。
私が読んだときは、この『量』と『数』を『量』一つにまとめてしまい、『数』に別の解釈をしてしまいました。
私の中では『量』の土地に対して配置可能な人数と物量というものは直結して実際に配置する人数と物量を思案することに繋がってしまうので、敢えて『量』と『数』の二つに分けている理由が思い至りませんでした。
もちろん、配置可能な数と実際に配置する数が異なることは理解できますし、相手の状況によって左右されることもわかります。けれどそれは『量』にまとめても良いような気がしてしまうのです。
私の解釈を反映してみると
『量』とは、『度』によって知った土地にどれほどの人数と物量を配置するのかを決める。
という風になります。
この『決める』という言葉に様々な意味を持たせていることになります。
『決める』という言葉の裏には暗に『思案の末に』ということあると思っているので、その『思案の末に』の中には『敵の情報』も入っているのです。
ではそうした場合に、空白になってしまった『数』にはどういう解釈が入るのかと言いますと、
私は『数』を『人数』ではなく『命数』や『天数』という風に捉えました。
『命数』や『天数』というのは、天が与えた運命という意味です。
『数』という感じには『数字』や『数値』以外にも、こういった運命などを示唆する熟語があるのです。
そして運命は『タイミング』という言葉に変換できると思うのです。
そうすると、『数』では『度』で得た地形の知識と『量』で得た必要な人員と物量を使って自陣にとっての『ベストタイミング』を伺う。となります。
ここまでを纏めると
『度』はそのままで戦場となる土地の地理を把握し、戦になった時どのように立ち回ることができるかを把握します。
『量』は『度』を踏まえて、そこに配置できる人員の数と物量、そして敵側の動きから、実際に配置する数を決定する。
そして『数』は、上記の要素を踏まえて、自陣にとっての『ベストタイミング』を伺うのです。
更にそれらに不備がないかをしっかりと比較したり熟考したりすることが『称』なのだと思いました。
戦場を知り、兵や物資を知り、時機を知り、それらを不備の無いように推し量ることこそが、『勝』をもたらすのだと解釈しました。
以上が私の解釈ですが、しっかりと言葉にしていくにつれて、『数』を実際に配置する人数や物量だとする解釈の方が辻褄としては合う気がしてきました。
その場合には私の提示するところの『タイミング』は『称』の方に包括されるのだと思います。
書き始めは『疑問』なんて形でしたが、書き終わってみると自己完結してしまっていました。
なんなんだと思われるかもしれませんがご了承ください。
疑問は解消されましたが、私個人の解釈も結構好きなので破棄することなく、自論として懐に仕舞っておきたいと思います。
何はともあれ、物事を始める時、『タイミング』というものは掛け替えのない要素の一つだと思います。
なので、みなさんも何か始める時に『タイミング』を気にしてみてはいかがでしょうか。
また日を改めて『タイミング』という題の投稿をしたいと思います。
その時はまたよろしくお願いします。