主観
どうもこんばんは、盃です。
ここ数日は少し忙しくて、投稿する時間を割くことができませんでした。
いくつか用事で人と会うことが多かったのですが、その中で少し考えることがありました。
それはタイトル通り『主観』についてです。
当たり前のことですが、人は『主観』でしか物事を見ることができません。
何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、頭でわかっていてもそれを考え方や行動にまで落とし込むのには相当な時間と意識が必要になります。
実際に存在している世界は私たちが見ている世界ではありません。
世界を目を介して認識しているからです。
目を介していない世界と目を介した世界では大きく異なります。
そして、だからこそ人によって見える世界は違うというのはどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
誰一人として全く同じ世界を見ている人はいないのです。
これも言葉だけを理解することは簡単です。
けれど、それを深く理解することは難しいな。と思いました。
人それぞれ違う世界を見ているはずなのに、同じ世界を見ているかのように意思疎通ができます。
これは偏に共通認識によるものです。
全く同じ世界は見ることはできないけれど、多くの場合は大体同じ世界を見ているのが理由です。
だからこそ、『赤』という色を示すと大体同じ色を想像することができます。
そして今の私たちは例外が存在することも理解しているので、『赤』を見ることができない人がいることも知っています。
その場合は、それを受け入れることができるでしょう。
問題は、『全く同じでなくても、大体同じである』
この『大体』の部分です。
この場合、人は『異質』ではなく『同質』だと一括りにしてしまうのです。
『赤』と言って、相手も大体同じ『赤』を思い浮かべます。
そして『大体』同じなので、『大体』会話に齟齬は生じません。
そうして、それが続くと人は『全く同じ』だと錯覚し始めるのです。
自分の認識の中での『赤』が相手にも当たり前に受け入れられたのです。そう思ってしまっても仕方のないことかもしれません。
けれど、どれだけ違和感がなく、問題がなかろうと絶対に『全く同じ』にはなりません。
『赤系統』の色を思い浮かべてさえいれば、どんな色であっても間違いではないのです。『朱色』でも『紅色』でも『小豆色』でも一応は『赤』なのです。
なのに、今まで問題がなかったからと言って相手の思い描く『赤』も自分のものと同じと錯覚してしまってはいけないのです。
それが諍いの元となるです。
大きなずれは『違う』ということで理解することができます。
けれど小さなズレは『大体同じ』でしかないので、『同じ』だと一括りにしてしまいがちで、そうなってしまっては自分の『主観』を押し付けてしまうのです。
これは『常識』などで多く見受けられます。
『常識』とは『十八歳までに身に付けた偏見のコレクションである』
これはアインシュタインの言葉です。
なので『主観』でしかないのです。
これが周囲の『常識』と大きくずれていれば自分が『違う』ということを認識して、対処することができます。
けれど、周囲の『常識』と『大体同じ』だった場合、それは『共通の常識』となってしまい、『自分の主観』ということを忘れてしまうのです。
だから『これくらい常識』、『なんでそんなこともわからないの』などという『自分の常識』を他人に押し付け始めるのです。
更に、『自分の主観』ということを忘れているから、他人を否定できるのです。
私は『否定』を好ましいとは思っていません。勿論する必要がある時は存在します。
けれど、他人を『否定』するということは視野の狭さから生じると思っているからです。
自分の主観としっかりと理解していて、『自分は好きじゃない』など考えるのは悪いことではありません。けれどその場合は『自分の主観』であることを強調しておかないと周囲にまで影響を与えてしまいます。
そして、多いのは『自分が正しくて、相手が間違っている』というニュアンスを含んだ否定です。
私は先日、Aの課題を手伝いました。
そのことについてBから否定されました。
AとBは同じ課題をやっていて、Bや他の人たちは自分だけの力で課題を終わらせたそうです。
『自分や他の人は自分一人でやった。一人でやるべきなのに、Aは私に手伝わせた』
というようなことを言っていました。
先生から、自分一人でやるように言われていたわけではありません。
それについて私は、『なんで他の人は一人でやったのか』『なんで一人でやるべきなのか』などなど気になることが多々ありました。
上記の二つについてのBの答えは一つでした。
『一人でやり遂げることに意味がある』
これは正しいと思います。
確かに課題を1人で成し遂げれば、自分の経験値となり、知識だって身に付きます。
確かに正しいとは思います。
けれど、それが『否定』していい理由などには成り得ません。
それだって所詮『主観』でしかないからです。
確かに一人でやれば自己成長につながるでしょう。
けれど、それは自己成長を重視する『主観』であって、自己成長ではなく、効率や労力を重視していた場合において、『一人で成し遂げる』というやり方は正しいのでしょうか。
実際にAはそのタイプでした。
ちなみに私はBと同じ考え方の人間です。
なので、Bの気持ちはとてもわかります。
けれど、だからと言って、その『主観』をAに押し付けてはいけないのです。
自分の『主観』は大事ですが、相手の『主観』も同じくらい大事なのです。
それを尊重し合うのが人付き合いです。
私たち他人にできることは、自分の『主観』を相手に押し付けることではなく
相手の『主観』に訴えかけることだけです。
その為には『否定』という方法を取るのはあまりに愚劣だと思ってしまいます。
そして、状況の全てを知っているのならば、善悪を判断することができると思いますが、人間が状況の全てを知っていることは殆どありません。
なので、知らないことが存在する時点で『客観』ではなく『主観』で判断しているのです。
Bの認識は、Aが私に課題を手伝わせた。というものです。
けれど、実際は私がAを心配して、手伝いの必要性を問いかけ、AがYesと言った。というものです。
しかもどの程度手伝ったのかさえも知りませんでした。
確かに、全てを私が肩代わりしていたのならば、手伝いの範疇を越えていると思いますが、ちゃんとした補助であったかもしれません。
それすらも確認せずに『否定』を口にするのは愚劣だと思わざるを得ませんでした。
こういったことをよく考えるので、私は『否定』をすることはあまりありません。
ただ主観を主観と認識した上で、自分の考えを口にすることはあります。
けれど、その際は絶対に『自分の主観』ということと、自分が正しくはないということを強調します。
ここには自分はしないけど、そういう考えもあると思う。
ということを意図しています。